Artとは・・・
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1994年4月、親父が急逝した。相続の都合で桜谷窯の経営者を母にして存続した。
多額の借金を残し、ほとんどスッカラカンだったが、たくさんの人たちの支援を受け、なんとか持ちこたえた。
名前を本名の康治から康和にかえた。親父の死の記念に何か変えて再スタートしたかった。
「康」という発音は僕というイメージが出来ているので、「治」を「和」に変えるだけにした。
「和」という字にはあこがれがあった。親父の名前の中にもあったが、日本的で平和なイメージが好きだ。
これで名前も芸術家っぽくなり。仕事に対する考え方も変化していった。
今までは備前焼というイメージの中だけでの表現だったが、開放的で自由な表現をめざした。
作品はオブジェが主で、自分の思いをストレートに形にした。
コンクールには積極的にだしたが大半は落選、だが懲りもせず、使命感のようなものを感じた。
桜谷窯の経営の方は雑器を中心に徐々に広がりはじめた。表現の上ではもう捨て去った備前焼の名も商売上ではまだまだおいしい名前であった。
オブジェ1994〜1996
多額の借金を残し、ほとんどスッカラカンだったが、たくさんの人たちの支援を受け、なんとか持ちこたえた。
名前を本名の康治から康和にかえた。親父の死の記念に何か変えて再スタートしたかった。
「康」という発音は僕というイメージが出来ているので、「治」を「和」に変えるだけにした。
「和」という字にはあこがれがあった。親父の名前の中にもあったが、日本的で平和なイメージが好きだ。
これで名前も芸術家っぽくなり。仕事に対する考え方も変化していった。
今までは備前焼というイメージの中だけでの表現だったが、開放的で自由な表現をめざした。
作品はオブジェが主で、自分の思いをストレートに形にした。
コンクールには積極的にだしたが大半は落選、だが懲りもせず、使命感のようなものを感じた。
桜谷窯の経営の方は雑器を中心に徐々に広がりはじめた。表現の上ではもう捨て去った備前焼の名も商売上ではまだまだおいしい名前であった。
オブジェ1994〜1996
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