Artとは・・・
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1986年に大学を卒業して本格的に陶芸家としてスタートした。83年に親父が窯元として桜谷窯を創設していたのでその時の職人たちから見よう見まねで技術を学ぶことができた。ロクロなどはコツさえつかめば後は慣れの問題である。しかし僕はその技術を究極まで極めることに魅力を感じなかった。
当時の仕事は主に古備前とかの写しに、窯変とか新しい焼成技術を施したものだった。それでも何とか売れていたみたいで、何か抵抗を感じながらも流れに従っていた。
その在学中の頃と思うが、初めて備前焼のオブジェを作った。
具象彫刻を専攻していた僕にはオブジェを作るという感覚は持っていなかったであろう。
何かを表現したかった訳でもなく、ただ遊び感覚でロクロやタタラで作ったパーツを組み立て、何処かの遺跡ような感じに作っただけであるが、親父が勝手に窯の良い場所で焼いてしまった。
当時こうゆうものは珍しかったので、これを見た人はみんな欲しがっていましたが、結局売らなかった。
ていうか値段もつけようがなかったからだ。
今考えれば当時バブルがはじける寸前の価値観に対する抵抗のようなものだったかもしれない。
このシリーズはこの1点で終わり、これから何も始まらなかった。
この後大きな失恋もあったし・・・。
ようやくこの作品に題名がついた。「No.00」

当時の仕事は主に古備前とかの写しに、窯変とか新しい焼成技術を施したものだった。それでも何とか売れていたみたいで、何か抵抗を感じながらも流れに従っていた。
その在学中の頃と思うが、初めて備前焼のオブジェを作った。
具象彫刻を専攻していた僕にはオブジェを作るという感覚は持っていなかったであろう。
何かを表現したかった訳でもなく、ただ遊び感覚でロクロやタタラで作ったパーツを組み立て、何処かの遺跡ような感じに作っただけであるが、親父が勝手に窯の良い場所で焼いてしまった。
当時こうゆうものは珍しかったので、これを見た人はみんな欲しがっていましたが、結局売らなかった。
ていうか値段もつけようがなかったからだ。
今考えれば当時バブルがはじける寸前の価値観に対する抵抗のようなものだったかもしれない。
このシリーズはこの1点で終わり、これから何も始まらなかった。
この後大きな失恋もあったし・・・。
ようやくこの作品に題名がついた。「No.00」
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