Artとは・・・
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92年日本現代陶彫展の募集要項を見て陶彫という分野に興味をもった。それはただ彫刻の素材が陶であるというイメージではなく、陶とは何か? なぜ陶を使うのか? 陶で何を表現するのか? という問い掛けであった。また野外設置ということで形よりも構造や安全性を重視しなければならない。
当時自然をテーマに創作していた僕に取りあえず陶で頭に浮かぶイメージは、土(大地)と炎であった。
炎のイメージで作った花器「炎炎」を野外陶彫として考えるといういいかげんなプランだったが、建築物のような感じで模型を作った。題名「炎炎と・・・」
本展入賞には届かなかったがマケット展で特別賞を頂いた。
しかしこの時まだ素材についてまでは深く考えていなかった。このマケットの素材は備前土、本展で作る大きさは高さ2〜3メートル、備前土だけではまともに作れない。
きめの細かさ、土味は優れていても耐火度が弱いため大きな構造物には向かない。この素材ではタイルにして組み立てる表現に限られてしまう。こうしてだんだん信楽土をベースに陶彫やオブジェを作るようになった。「炎詩」高さ約180センチ
94年には倉敷まちかどの彫刻展で優秀模型展に入選、「大地の精」。
日本現代陶彫展マケット展入選、「大地」。
その後の出品は選外続き、何か方向を見失ったような感じだ。
当時自然をテーマに創作していた僕に取りあえず陶で頭に浮かぶイメージは、土(大地)と炎であった。
炎のイメージで作った花器「炎炎」を野外陶彫として考えるといういいかげんなプランだったが、建築物のような感じで模型を作った。題名「炎炎と・・・」
本展入賞には届かなかったがマケット展で特別賞を頂いた。
しかしこの時まだ素材についてまでは深く考えていなかった。このマケットの素材は備前土、本展で作る大きさは高さ2〜3メートル、備前土だけではまともに作れない。
きめの細かさ、土味は優れていても耐火度が弱いため大きな構造物には向かない。この素材ではタイルにして組み立てる表現に限られてしまう。こうしてだんだん信楽土をベースに陶彫やオブジェを作るようになった。「炎詩」高さ約180センチ
94年には倉敷まちかどの彫刻展で優秀模型展に入選、「大地の精」。
日本現代陶彫展マケット展入選、「大地」。
その後の出品は選外続き、何か方向を見失ったような感じだ。
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88年〜90年にかけては最悪だ。兄夫婦が離婚し、僕は失恋、おまけにバブルがはじけて不景気の波がどんどん押し寄せてくる。
未来への方向性を見失った桜谷窯はただ維持するのがやっとの状態。
まともにやってもどうせ売れないのなら・・・、少し開き直り、創作物を作り始めた。
モチーフは自然、当たり障りのない表現が出来たからだ。
91年よりいろんなコンクールに出し始めた。
出品は直接現地に行って搬入・搬出した。
そこには今まで一般で見る陶芸とは別世界のものがあった。それは多分「自由」。
その中で伝統という枠の中で守られながら入選・入賞を果たしている壺や皿や鉢が滑稽に見えた。
たぶんこの先自分も徐々に路線から外れるであろうことを実感していた。
未来への方向性を見失った桜谷窯はただ維持するのがやっとの状態。
まともにやってもどうせ売れないのなら・・・、少し開き直り、創作物を作り始めた。
モチーフは自然、当たり障りのない表現が出来たからだ。
91年よりいろんなコンクールに出し始めた。
出品は直接現地に行って搬入・搬出した。
そこには今まで一般で見る陶芸とは別世界のものがあった。それは多分「自由」。
その中で伝統という枠の中で守られながら入選・入賞を果たしている壺や皿や鉢が滑稽に見えた。
たぶんこの先自分も徐々に路線から外れるであろうことを実感していた。
1986年に大学を卒業して本格的に陶芸家としてスタートした。83年に親父が窯元として桜谷窯を創設していたのでその時の職人たちから見よう見まねで技術を学ぶことができた。ロクロなどはコツさえつかめば後は慣れの問題である。しかし僕はその技術を究極まで極めることに魅力を感じなかった。
当時の仕事は主に古備前とかの写しに、窯変とか新しい焼成技術を施したものだった。それでも何とか売れていたみたいで、何か抵抗を感じながらも流れに従っていた。
その在学中の頃と思うが、初めて備前焼のオブジェを作った。
具象彫刻を専攻していた僕にはオブジェを作るという感覚は持っていなかったであろう。
何かを表現したかった訳でもなく、ただ遊び感覚でロクロやタタラで作ったパーツを組み立て、何処かの遺跡ような感じに作っただけであるが、親父が勝手に窯の良い場所で焼いてしまった。
当時こうゆうものは珍しかったので、これを見た人はみんな欲しがっていましたが、結局売らなかった。
ていうか値段もつけようがなかったからだ。
今考えれば当時バブルがはじける寸前の価値観に対する抵抗のようなものだったかもしれない。
このシリーズはこの1点で終わり、これから何も始まらなかった。
この後大きな失恋もあったし・・・。
ようやくこの作品に題名がついた。「No.00」
当時の仕事は主に古備前とかの写しに、窯変とか新しい焼成技術を施したものだった。それでも何とか売れていたみたいで、何か抵抗を感じながらも流れに従っていた。
その在学中の頃と思うが、初めて備前焼のオブジェを作った。
具象彫刻を専攻していた僕にはオブジェを作るという感覚は持っていなかったであろう。
何かを表現したかった訳でもなく、ただ遊び感覚でロクロやタタラで作ったパーツを組み立て、何処かの遺跡ような感じに作っただけであるが、親父が勝手に窯の良い場所で焼いてしまった。
当時こうゆうものは珍しかったので、これを見た人はみんな欲しがっていましたが、結局売らなかった。
ていうか値段もつけようがなかったからだ。
今考えれば当時バブルがはじける寸前の価値観に対する抵抗のようなものだったかもしれない。
このシリーズはこの1点で終わり、これから何も始まらなかった。
この後大きな失恋もあったし・・・。
ようやくこの作品に題名がついた。「No.00」
僕の場合年々収入が減り、続けられるのが不思議なくらいだ。信念がなければとっくにやめている。
と言いたいところだが、実のところ開き直りの境地に至っているだけである。
幸い僕には守るべき伝統もなければ、使命感などと言うものも持っていない。ただこうすれば面白いんじぁないかとか、楽しいんじゃないかとか気楽な感じである。
でも生活はかなり追いつめられヤバいのだが、こうゆう時は何かのおかげをもって常に乗り越えれると信じて開き直るのだ。
これにより自分が芸術をしているのではなく、何かが自分に芸術をさせているという感覚に至るようになった。いやむしろ僕は芸術をさせてもらっているのだ。
僕はこの世界の一部としてこの世界で生き、全てを受け入れ、それを糧に 全てのためのものを求めて行く。
そこに僕が表現するべき芸術があるのだ。
と言いたいところだが、実のところ開き直りの境地に至っているだけである。
幸い僕には守るべき伝統もなければ、使命感などと言うものも持っていない。ただこうすれば面白いんじぁないかとか、楽しいんじゃないかとか気楽な感じである。
でも生活はかなり追いつめられヤバいのだが、こうゆう時は何かのおかげをもって常に乗り越えれると信じて開き直るのだ。
これにより自分が芸術をしているのではなく、何かが自分に芸術をさせているという感覚に至るようになった。いやむしろ僕は芸術をさせてもらっているのだ。
僕はこの世界の一部としてこの世界で生き、全てを受け入れ、それを糧に 全てのためのものを求めて行く。
そこに僕が表現するべき芸術があるのだ。
芸術家を志してはや30年になるが、いまだ芸術とは何かよく分からないでいる。
美大では彫刻を勉強したが、美術界の流れのようなものについて行けず、親の勧めで備前焼作家として陶芸を中心に活動してきた。しかしこの世界も何か乗り切れないものを感じながら今日に至ってしまった。
芸術というものを深く考えれば考えるほど自分自身や自分のやっていることに矛盾を感じてしまう。
芸術が単に個性とかの自己主張であるならば、どう売り出すかを競うだけあろう。
しかしそれでは芸術そのものの意味がすごく安っぽい気がする。
本来なぜ人間はものを作ったり表現したりしてきたのか考えるべきである。
今、大不況と言える芸術界において皆それどころではない状況であるが、こんな時代だからこそ芸術の真意が問われているのだ。
美大では彫刻を勉強したが、美術界の流れのようなものについて行けず、親の勧めで備前焼作家として陶芸を中心に活動してきた。しかしこの世界も何か乗り切れないものを感じながら今日に至ってしまった。
芸術というものを深く考えれば考えるほど自分自身や自分のやっていることに矛盾を感じてしまう。
芸術が単に個性とかの自己主張であるならば、どう売り出すかを競うだけあろう。
しかしそれでは芸術そのものの意味がすごく安っぽい気がする。
本来なぜ人間はものを作ったり表現したりしてきたのか考えるべきである。
今、大不況と言える芸術界において皆それどころではない状況であるが、こんな時代だからこそ芸術の真意が問われているのだ。